【2020年11月12日】
中部学院大学(学長古田善伯)人間福祉学部(学部長飯尾良英)は高校生を対象に、「認知症との出会い」をテーマにした体験記やエッセイを募集してきました。この度、最優秀作品など12名の受賞者が決まりましたので、お知らせします。
今回の体験記・エッセイの募集は今年度初めての試み。日本は超高齢社会を迎え、認知症を発症する高齢者が増えてきている中で、身近である家族や地域の方が認知症となり、接する機会も増えています。今回のねらいは、高校生から寄せられた「生の声」を通して、認知症についてより理解を深める契機にすることです。11月11日の「介護の日」に合わせ、認知症の啓発につなげていきます。
受賞者は下記の通り。表彰者には表彰および賞品を贈呈しました。
氏名 | 学校名 | 学年 | 摘要 | ||
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1 | 最優秀賞 | 田中 心和美 | 福岡女学院高等学校 | 2年生 | 福岡県 |
2 | 最優秀賞 | 佐々木 愛莉 | 岐阜県立大垣桜高等学校 | 3年生 | 岐阜県 |
3 | 最優秀賞 | 吉田 弥生 | 2年生 | 東京都 | |
4 | 優秀賞 | 匿名 | 岐阜県立大垣桜高等学校 | 3年生 | 岐阜県 |
5 | 優秀賞 | 坂井 日花留 | 岐阜県立岐阜各務野高等学校 | 3年生 | 岐阜県 |
6 | 優秀賞 | 岸野 恵理加 | 広尾学園高等学校 | 2年生 | 東京都 |
7 | 優秀賞 | 米澤 京香 | 岐阜県立岐阜各務野高等学校 | 3年生 | 岐阜県 |
8 | 優秀賞 | 仲河 麻衣 | 岐阜県立岐阜各務野高等学校 | 3年生 | 岐阜県 |
9 | 佳作 | 渡邊 つゆめ | 岐阜県立大垣桜高等学校 | 3年生 | 岐阜県 |
10 | 佳作 | 渡邉 優羽 | 岐阜県立大垣桜高等学校 | 3年生 | 岐阜県 |
11 | 佳作 | 高橋 那奈美 | 岐阜県立大垣桜高等学校 | 3年生 | 岐阜県 |
12 | 佳作 | 野々村 彩夏 | 岐阜県立大垣桜高等学校 | 3年生 | 岐阜県 |
応募総数 74編
最優秀賞3編 優秀賞5編 佳作4編
私の祖父は認知症です。祖父は全部忘れてしまいました。
ずっと繰り返し聞かされた戦後戦時中の話。自慢げにしていた大学のヨット部の話。一緒にお風呂に入った時に歌っていた上杉謙信の歌。そして可愛がってくれた孫の私。
全て、全て忘れてしまいました。もう二度と戦争の話もヨットの話もしません。歌も歌いません。私が訪ねても「よく来たね」と笑ってくれません。
認知症になって陽気だった性格や顔つきも変わりました。まるで怖い顔をした祖父そっくりの着ぐるみが祖父を乗っ取ってしまったかのようです。何度訪ねて、何度会っても、祖父と私は「はじめまして」を繰り返します。認知症は祖父を奪って行きました。私たちに何処にも捨てられない感情をもたらしました。
しかし、認知症になってまともに話せなくなってからこそ、祖父との過去の話などを大切に思えました。幼い頃に聞いた祖父の話は私の記憶となり、祖父の代わりに私がずっと覚えています。いずれ、私が祖父と同じようになってしまっても覚えていたいです。
祖父は認知症です。しかし、私が祖父の代わりに全部覚えています。また「はじめまして」を言いに会いに行くので、待っててね。
私と祖母は、今でも同じ布団で寝たり、休日の朝は一緒に喫茶店へ行くほど仲が良い。昔から、私が落ち込んでいると必ず1番に気付いて相談に乗ってくれる。親にでさえ言えないことも祖母になら何でも話せる。祖母は私の1番の味方だ。
最近の祖母は物忘れが酷い。車のドアを開けたままにしたり、鍵をよく無くす。私が年を重ねるように祖母も年を取っていく。認知症の学習をしている私にとって嫌な予感がしつつある。私の名前も最近は呼ばなくなった。すぐに出てこないのか、「ねえ」と肩を軽く叩いて私を呼ぶ。「愛ちゃん」と優しく呼んでくれる祖母が大好きだったので急に悲しくなった。
もし、この先祖母が認知症になって私のことを忘れてしまったとしても、今まで2人でしてきたことをたくさん話そうと思う。祖母が私に優しくしてくれたように、今度は私が祖母の1番の味方でありたい。
私がまだ小学生だったころ、祖母はとても活動的な人でした。習い事や友人とのお出かけ、家族旅行、毎日忙しくて仕方ない、という笑顔の素敵な祖母でした。唯一の孫である私は、記憶のある限り全てにおいて祖母から溺愛を受けていました。
その祖母に異変が見られたのは、高校に入学した頃でした。賢い祖母です、自分で自分の異変に気が付いたのでしょう。記憶があるうちにと、私に「ばぁばは、あなたのことが一番大切だからね」と母の名を呼び語りかけてきました。名前を呼び間違えられたその瞬間、表現できない寂しさと、いつか祖母の脳裏から私たち家族との記憶がなくなるという覚悟が生まれました。記憶にとどめられるよう写真を撮ったり、贈り物をしたり。祖母の脳裏から消えていく記憶の量を補うように新しい思い出を作ることに懸命でした。でもきっとすべて忘れてしまうでしょう。でも祖母がすべてを忘れても、私は祖母を忘れません。愛された記憶も暖かい手も。おばあちゃん、大丈夫だからね。ありがとう。
毎日決まった時間に、「仰げば尊し」を歌うAさんがいた。昔のことを思い出すのは辛いけれど、この歌を歌うと元気が出るのだと嬉しそうに話してくれた。
しかし、Aさんは「ご飯、私だけもらっていないよ」などと、ついさっきやっていたことを忘れてしまう。何度も同じことを聞かれることもあった。その時に、「それは違うよ」と相手を否定したら、Aさんを傷つけることになる。だから、私は、「もうすぐご飯が来ますので、それまでこの絵を完成させませんか?」と利用者さんの気持ちを紛らわせた。少しでも不安な気持ちを取り除き、安心して生活してもらえるように支援したいと思ったからだ。
私はAさんに戦争の体験話をしてもらった。泣きながらも戦争を知らない私たちに、必死に当時の様子を伝えようとしてくれた。「仰げば尊し」は学生の頃の思い出の歌。今日もAさんは決まった時間に歌い続けている。
私の父方の祖母は認知症を患っています。久しぶりに祖母に会いに行きました。その時祖母はもう父の名前を忘れていました。昔の話をしていると父の名前が出てきます。しかし本人と一致することは無いのです。笑顔で祖母と話している父はどんな気持ちなんだろう。「辛くないの?」と父に聞いたことがあります。父は「辛いか辛くないかって聞かれたらそりゃ辛いけど、笑顔で生きてくれているだけで俺はありがたい。」
と悲しげに言いました。 私はその言葉を聞いてなんとも言えない気持ちになりました。世の中には親が認知症を患い自分を忘れていく過程を見ていくにつれ、悔しく虚しく、時には手をあげてしまう人もいます。その様なことがあっても家族というのは切れない縁だと思います。苦しい中で小さな幸せを見つけた時、私はそれをもっと大切にしたいと思うのです。
「君は誰?」
久しぶりに祖父に会うと、こう聞かれた。認知症であることは分かっていたが、ショックだった。自分のことを説明し、雑談をしてから施設を去った。次回また同じことを聞かれると思うと、少し気が重かった。
一ヶ月後、再び祖父の元を訪れた。今度は身構えて。すると、前回と同じく、
「君は誰?」
と聞かれた。自分の名前を伝えると、祖父は突然テーブルのノートを手に取った。
「ちゃんとここに書いておいたから大丈夫。」
と言われた。それを見ると、前回伝えたことがびっしりと書かれていた。そんなことをしていたなんて。祖父は祖父なりに、病気と上手く向き合っている。そう実感し、心が温かくなった。
だんだんと祖父の認知症は深刻化し、ノートの存在も忘れてしまった。しかし、私はその日以来、祖父との会話を前以上に楽しめるようになった。覚えてることを期待して、裏切られて。忘れていてもいい。また伝えれば良いのだから。
特別養護老人ホームへ実習に行ったときのことです。その施設はユニット型で四つのユニットに別れており、実習生は各ユニットに一名ずつ配属されました。
そこで出会ったのが、Kさんという女性の利用者さんでした。Kさんは認知症を患い、物忘れが特に顕著に出ている方でした。
毎日、Kさんに「初めまして」と自己紹介をしました。私にとっては毎日会っている人でも、Kさんにとって私は、初めて会う人だからです。
実習も終わりにさしかかったある日のこと、Kさんが私の手を握って泣き出してしまいました。驚いて私が理由を尋ねると「貴方の手は暖かいから、握っていると孫や子供たちを思い出すの」と教えてくださいました。
認知症によって、たとえ多くのことを忘れてしまったとしても、何かのきっかけに思い出すことがあるのだと気付き、驚きました。私たちが、忘れたと勝手に認識しているだけで、思い出は当人の心の奥底にしっかりと眠っているのではないか、と思いました。
私の祖父は認知症でした。私はまだ小学生だったので、認知症についての知識などありませんでした。失禁や徘徊などの周辺症状ですら、「認知症というのはこういうものなのだろう。」と勝手に考えていました。
しかし、今考えると、あの時の家の状況、祖父に対する態度があまり良くなかったことにより、周辺症状が進んだ末の結果なのだと今は思います。祖父は亡くなる前、病院で看護師の方を『自分の孫』だと嬉しそうに話していたそうです。また、遠くの姉の家へ車で行こうとして、行方不明になった時もありました。祖父は寂しかったのかもしれません。
私は祖父が大好きでした。しかし、認知症であった祖父に寄り添ったり、気持ちを考えていたのか、昔の話を何度もする祖父に、私は話を聞き流していなかったか。何度も一人で歩いて行く祖父を追いかけて一緒に歩くだけでなく、祖父がもっとより良く過ごす道があったのではと、今も考えてしまいます。
私の祖父は、朝早くから仕事に行ったり家でも読書をしたり真面目な人です。私に勉強を教えてくれたときもありました。ところがある日、脳梗塞で倒れ、認知症になりました。
その日から祖父はとても静かになりました。私たちが久しぶりに帰省しても、「帰れ」と追い払われることもありました。いざ身近な人が認知症になると、どう接すればいいのか分からず祖父を避けるようになっていました。
しばらくして、高校の授業で認知症サポーター養成講座を受講しました。そこで初めて、認知症の症状や対応の仕方を学びました。認知症の方と社会の繋がりが途切れないように、私たちが適切に対応していくべきだと知りました。
私は避けることをやめ、会いに行き以前のように祖父に接するようになりました。祖父も笑顔が増え、穏やかな雰囲気になったと感じています。落ち着いてその人を尊重した対応を今後も行っていきたいです。"
「あなた、誰ですか。」
私が介護実習に行くと、Aさんはいつもこの言葉からスタートする。なぜならAさんは認知症の方だからだ。認知症と聞くと、どうしても悪いイメージがついてくる。そんなマイナスなイメージを変える出来事があったのはAさんとの出会いだったのだ。
私は毎日、いろいろな場面で会話することを意識しても、Aさんはいつも私の名前を尋ねてきた。時間が経つと忘れられてしまう、そんなことを考えると寂しく思えた。
ある日、Aさんの家族の方に会い、アルバムを見せていただいた。その横で楽しそうに思い出話をする、笑顔が素敵なAさんがいた。私は自分のことのように嬉しく思った。
現代の社会では、認知症に対する理解が浅いと思う。認知症が悪い病気ではないと誰もが思えるような社会が訪れるよう、私も一人ひとりに寄り添うことのできる支援者になりたい。"
「お姉さん、一緒にお話しましょ。」この言葉は、ある実習先で4人で話をしていた中の1人の利用者さんが私にかけてくださった言葉です。 私は、初めて認知症の方と直接関わりました。自己紹介をしたにも関わらず、その人の中では私は毎回初めて出会う人でした。その対応にどう関わればよいか分かりませんでしたが、徐々にコミュニケーションをとっていくうちに、私は「お姉さん」から「高橋さん」に変わっていきました。そして、実習最終日には、色を塗った絵をプレゼントして下さいました。今でもその絵は大切な宝物です。
認知症と聞くと、大声を出したり徘徊したりというマイナスイメージが強いです。しかし、一人ひとりとじっくり深く関わっていくことで、認知症の症状の違いに気付くことができます。
実習中の出会いがあったからこそ認知症の考え方を改めることができたと思います。"
私の曾祖母は、アルツハイマー型認知症。短期記憶の低下により、同じことを何度も言う。当時、小学5年生だった私には不思議としか思わなかった。もちろん、認知症についてもあまり知らなかった。しかし、日に日に変わる家の雰囲気には、気づいていた。家から笑いが無くなりピリピリしていた。
そんな時、母が「穏やかに」と言った。母は介護福祉士でこの家の状況を一番分かっていた。この一言で、家の雰囲気が元に戻った。私は母をかっこいいと思い、いつのまにか母の背中を追っていた。その時、将来の夢が介護福祉士に決まった。高校も福祉を学べる学校に入学し、知識を増やそうと努力している。
来年の春、私は高校を卒業し、グループホームに就職する予定だ。グループホームは、認知症対応型施設だ。ここで、多くのことを学び、今よりも知識や技術を増やしていきたい。少しでも、曾祖母の気持ちを理解できる介護福祉士になることを願って。